神社として北海道最古の歴史を誇る雷公神社所蔵の「大野土佐日記」という古文書には、鎌倉時代の将軍の命により、元久2年(1205年)甲斐の国(山梨県)から来道した荒木大学という人物によって、砂金堀りが始まったという記述があります。
伝説と史実が語る先人たちの姿
日本最古の墓とストーン・サークル
昭和五八年、湯の里4遺跡でおよそ一万四千年前の墓が発掘されました。この墓は現在日本最古のものとされ、墓制の起源を旧石器時代までさかのぼらせる発見となりました。墓の副葬品として、ユーラシア大陸の遺物と共通点の多いコハク製の垂飾やカンラン岩製の小玉など十四点が出土。この時代の人や物資の交流を考える貴重な資料として、平成三年に国の重要文化財に指定されました。湯の里5遺跡で発掘された縄文時代後期のストーン・サークルは、大小の自然石が二重に配置されているという道内ではまれな形を持つ遺構です。中央に火を焚いた跡が見られ、祭祀的機能を持っていたと考えられています。また、湯の里1遺跡の竪穴住居内の土器からは多くのサケ科の骨が検出されました。旧石器時代から縄文時代、知内川の恵を受けて人々が集落を形成していたことが想像されます。
出土品
知内町郷土資料館には、重要文化財に指定されたコハクなど14点を展示してます。
大野土佐日記(注)に見る中世
津軽海峡に漂う一隻の舟がチリオチの浜に上陸したのは一二〇五(元久二)年のこと。そこで金塊にも見える輝く石を見つけた水夫は、故郷である甲斐の国いはら郡領主・荒木大学に献上。大学は幕府により、蝦夷ヶ千島の金山見立てを命ぜられることとなりました。掘り子、家中を併せ千人あまりで蝦夷地へ乗り込んだ大学。その時、山開きのために山伏であった了徳院重一(後の雷公神社初代神主)も同行。一二一七(建保六)年、出石丸山裾野に山城を構え、近くに真藤寺を建立しました。現在この寺の姿はありませんが、明治三五年、寺跡と伝えられる場所から三体の地蔵が発見されています。金堀が進んでいた一二四四年頃、山々が鳴動したため、大学は上加茂、下加茂の二社を新たに建立。この二つの社は現在の雷公神社の前身となりました。
(注)大野土佐日記 雷公神社に伝わる知内町最古の古文書。
雷公神社
北海道最古の神社
知内の伝説
知内には昔から様々な言い伝えが残されています。雨石
雷公神社の祖、了徳院重一を祀る神社のご神体である石。祈願すると必ず雨が降ったため雨石と呼ばれるようになりました。雨石さまの御神体
雨石社は1260(文応元)年建立され、祭神は大野霊とされています。
雷公神社初代別当大野了徳院は、死に際して「知内川は大水の年ほど鮭が遡る。旱魃で雨が降らない年は必ず雨を降らせるので私を川のほとりに埋めるように」と遺言して亡くなりました。家族はその通り川のほとりに埋葬し、塚石を安置し記念の松を植えたといいます。
そしてその後の或る年、幾日も幾日も雨が降らず旱魃に困り果てた村人が了徳院様にお願いしようと塚石を抱えて川に沈めたところ、一天俄かに曇って大粒の雨が落ち、やがてざんざ降りとなって川水が増し、鮭が遡り村人を安堵させたと言い伝えられています。村人はその塚石を雨石様の御神体として祠を建立し大切に守り、現在に至ったといわれています。
参考文献 知内歴史散歩 (発行者)知内歴史研究会
姥杉
了徳院重一の妻を祀る杉の木。乳不足の母親が祈願するとお乳が出るようになったため、乳母杉ともいわれています。二つの瘤を持つ杉
了徳院重一が亡くなった数年後の1262年(弘長2)年、妻の玉之江は病床に伏していました。玉之江は家族を呼び、「私が亡くなったら知内の一番見晴らしのいいところに埋めてください。乳不足の母親にお乳を授けてあげたいのです」と遺言し亡くなったといわれています。
家族は元町の小高い丘に玉之江を葬り、そこに一本の杉の木を植えました。その木にはいつの頃からか女性の乳房に似た二つの瘤が見られるようになり、そばにお堂を建て、姥杉社と名づけました。そのお堂にお乳の出ない母親がお米を入れた大小の布を供え祈願したところ、しだいにお乳が出るようになったため、「乳母杉」「乳神さま」といわれるようになりました。
参考文献 しりうち昔ばなし (発行者)知内町教育委員会
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